自分を責めてしまうとき
“自分を責める”ことは、「自分で責任をとること」ではない。
なんでこんなことやっちゃんだろう…
私ってなんてダメな奴なんだろう…
あんなことを言った私が悪いんだ…
↑↑パッと見、自分でやったことを認めているようだけど。
実は自分で責任をとるのが怖くてやっていることなのだ。
自分を責めることで、失敗を認めなくて済む。
失敗を認めてしまったら、次に「やること」がわかってしまうから。
それを「やる」のはとても怖いから。
自分を責めている間は、動かなくて済むし
なんなら、誰かに「そんなことないよ」「あなたは悪くないよ」って慰めてもらえる。
弱い自分でいられる。誰かに責められないで済む。
私は自分を責めるのが得意だった。
「私がそう言わなかったから悪いよね」「私がもっとうまくできれば良かったよね」
でもその割に「そうだね、あなたが悪いよ」と言われたらムッ☹とする。(笑)
「私、悪くないのに!」って思う。
勝手か😂!!!!
自分で責めることで、誰かに責められないように守っていたのだ。
「そんなことないよ」って言ってほしいのだ。
その“言われたい言葉”を、まずは自分に言ってあげよう。
「そんなことないよ」「そんなつもりなかったんだよね」「わかってるよ」「頑張ったもんね」「あなたのせいじゃないよ」「相手にも事情があったんだよ」
でも
間違えちゃうことは、あるよね。
言い方を間違えちゃうことはある。
やり方を間違えちゃうこともある。
わからないことだってあるに決まってる。
「間違えること」は「悪いこと」ではないよ。
もちろん、「恥ずかしいこと」でもない。
だから責めるのはもうやめようよ。
自分が「間違えた」と思うことをとっとと認めちゃおう。
「間違えた」ことを認めたら、じゃあ「次はどうすればいいか」考えてみよう。
自分を責めるのは、自分が「間違えたこと」を認めるのが怖いからだ。
「ごめんなさい」を言うのが怖い。
「本当はこう思う」を伝えるのが怖い。
別の方法をやったことがない。違うことをやるのが怖い。
自分を責めていれば、相手が罪悪感をもってくれる。
自分を責めていれば、新しいことをやらずに済む。
自分を責めていれば、欲しい言葉を言ってもらえる。
自分を責めていれば、「間違えたこと」を正当化できる。
だから楽チン。コスパが最強。
だから、弱いフリするのはもうやめて。
自分を責めることで「間違えた(かもしれない)こと」から逃げてきた自分を認めてみよう。
「間違えた(かもしれない)こと」を認めるのは、とても勇気のいることで。
「間違えた(かもしれない)自分」を受け入れられるあなたは、すごく魅力的だ。
間違えた(かもしれない)ことを受け入れるのが、「自分で責任をとる」ということ。
「本当は、どうしたかったのかな?」
どう伝えればよかったかな?
どうやればもっと楽しめたかな?
じゃあ次はこうしてみようかな。
自分が「したかったこと」に目的地を決め直して、出発する。
失敗しないように「知識」をつけたって、前には進めない。
「知識」はあくまで「もちもの」であって、「足」ではないからだ。
どんなに「知識」があっても、実際に「足」を出さないと向かえない。
「電車」に乗るのも、「タクシー」に乗るのも、「飛行機」に乗るのも、「乗り方」だけわかってるだけでは、その場所には行けない。
実際に「乗る」には、やっぱり「足」を踏み出さないといけない。
間違えたら、また行先を決め直せばいいだけ。
でも間違えたことを認めなかったり(自分を責めたり)、間違えたくないからとその場から動かなかったら、いつまでも行きたい場所には辿り着かないよね。
間違うことは悪くない。
間違えたことを「認める」のが怖いだけ。
あなたはなにも悪くない。
あなたのことは誰も責めない。
でももしかしたら、間違えてることがあるのかもしれない。
間違えたことを「認めて」ほしいと思ってることはあるかもしれない。
間違えられることは、素晴らしいことだ。
「本当にしたいこと」「本当に伝えたいこと」「本当に生きたい場所」が、どんどん明確になるから。
たくさん間違えよう。
どんどん「本当の望み」をクリアにしていこう。
いつまでも「やりたいことがわからない」のは、「ちゃんと間違えてない」から。
或いは、間違えてしまったかもしれないことを「まだ認めてない」から。
関わる人が増えるほど、間違う機会も多くなる。
そのたびに私も、うっかり自分を責めて、「間違えたかもしれない」ことから目を逸らしたくなるんだけど。(笑)
その度に一呼吸おいて、自分が「本当に言いたかったこと」「本当はやりたかったこと」を見つけてあげる。
何度間違えても大丈夫。
生きている限り、“手遅れ”はないよ。
「今」からもう一度、はじめよう。
今日も読んでくれてありがとう。