カラフルに生きよう

知識より体の声を。情報より心の声を。自分の色を思い出し、人生の解像度をあげるためのブログ。

「望まない」ものすら「望む」もの

少しだけお久しぶりです。マイコです♪

今日も読んでくれてありがとうございます!

 

なんていうか、これまでいろいろと書いてるくせに、漠然と「宇宙の法則」って結局なんなんだろって考えていました。

私も、この法則を意図的に使って「なりたい自分になれる」「やりたい望みが叶う」という魔法みたいな言葉に魅了されたひとりです。

私は小さい頃から、常に自分にとって「憧れの存在」を置いてきました。学校の友達や仕事仲間、素敵な先輩。あの人みたいに絵が上手に描けたら、あの人みたいにテレビに出れたら、あの人みたいに芝居がうまくなれたら…

努力の甲斐はそこそこにあって、絵が上手になったり、テレビに出れたり、良い芝居するね、なんて言われたりしたけど、結局満たされるのは“そこそこ”でした。

 

どんなに絵がうまくなっても、テレビに出れても、良い役者になっても、私は「その人」には永遠になれないから。

 

周りにはたくさんの人がいて、私のことを「好き」だと言ってくれる人もいるけど、見栄張って、いい子になろうと頑張って人に合わせて生きてきて、一体みんなはそんな私のなにを見て「好き」だなんて言ってるんだろうって、自信がなかったんです。

 

宇宙の法則って、最初はみんなすごい楽しいしめっちゃ救われる気持ちになるんですよね。

 

だって、今までいろんなルールにがんじがらめになっていたのに、「好きなことだけしなさい」「自分を甘やかしなさい」「やりたくないことはやらないでいい」なんて、夢のような言葉じゃない?

そりゃさ、「まじか!やったー!それでいいんだー!」ってなるよね。(笑)

私もこの法則に出会って、「我慢」はしなくていいんだって思えてすごく気持ちが楽になりました。

 

でも私的には、ここからが宇宙の法則の「本質」を知るタイミングだと思うのです。

 

いわゆる“成功者”の皆さまは、すごくキラキラしてるよね。

「楽しいこと」しかしない。「やりたくないこと」はしない。「お金は湯水のように湧き出てくる」。「どんどんキレイになる」。

そんな表面だけすくって、憧れて、キラキラした部分だけ真似ても、多分それって私が小さい頃から憧れてた「その人」になろうとしてることと変わらないんじゃないかと。

ある程度キラキラしてる気分にはなれるけど、満たされるのは案外その一瞬だけだったり。

 

だってさ、「在りのままの自分を居続けること」って、そうそう簡単にできるものじゃないと思うんですよ。とくに、「我慢」や「努力」が美徳とされているような環境で、それが「当たり前」だと思い込んでる状態でね。

 

宇宙の法則を味方につけて、「なりたい自分」になる。

それを可能にしたくて、本読んだり、人の話を聞いたり、たくさん知識をつけて、理解したような気になっても、結局実践してみないとわからないことってたくさんある。

 

そもそも、「宇宙の法則」って勉強して習得するようなものではなくて、もう既にみんな日常で普通にやってるんです。

重力が必ず全員に働いているのと同じくらい、超当たり前のこと。

意識的だろうが、無意識だろうが、自分の波動と同じ出来事が共振しあって引き合うことなんです。

 

だから、みんな「楽しいこと」だけやりましょう。って言ってるんだよね。

そして、その言葉に救われた人たちが「楽しいこと」だけやっていいんだ!って気が楽になる。

導入としては、これでなにも問題ないのです。

 

現状は無視して、常に「望むもの」に思考をフォーカスさせて、“良い気分”でいる。

そんな風にすれば、望みは叶う。

 

じゃあ“良い気分”とはなんなのか。

最初の頃は「ケーキを食べる」とか「音楽を聴く」とか、文字通り“良い”気分になれるものを取り入れる。

 

でも私の思うこの宇宙の法則の「本質」は

「嫌なこと」を「嫌だ」と思えることも

「つらいこと」を「つらい」と思えることも

 

全部ひっくるめて“良い”気分と心から思えるか。だと思うんです。

 

 

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これ、前にも載せたやつだけど。

ネガティブな感情になることは、生きている上で当たり前のことで。

「嫌なこと」は「良いこと」を体験するためには必須なんです。

 

「望むもの」に意識をフォーカスしたいのに、「望まない」現実が起こったとして、「これは見たくないから、見たいものにフォーカスしよう」と思っても、そもそも「見たくない」ものにフォーカスが合ってる気がするんです。

 

だから、「見たくない」ものすら「見たい」と思うことができればいいんだよね。

この「見たくない」現実は「見たい」現実のために、必要なものだと受け入れる。

 

嫌いな人を愛しましょう。とか

嫌なことも良いと思って進んでやりましょう。とか

そういうことじゃなくて

 

嫌いな人を「嫌い」と思うことは、「好き」な人に会うために必要なこと。

やりたくないことを「やりたくない」と思うことは、「やりたい」ことをやるために必要なこと。

 

「嫌い」だから「好き」なことだけ考えるとか、「嫌だ」から「良い」ことだけやろう。とか、そういうことじゃないんじゃないかなーってことです。

 

真っ黒い感情も、重たーい気持ちも、全部ひっくるめて自分に必要だと、受け入れて楽しめるかどうか。

 

それって、やっぱりどっかのタイミングで「自分と向き合う」ことが必要になるんじゃないかと思うんです。自分は何が嫌で、どうして嫌なのか。

ただキラキラした生活をして、感謝して、ハッピーな気分でいるような表面的なことじゃなくてね。

 

「楽しくないこと」を「楽しめない」と思えることを、「楽しめるか」みたいな。

 

なんか哲学的になってしまった。(笑)

 

「良いこと」や「楽しい」ことを望んで引き寄せようとしても、「嫌なこと」も「やりたくない」ことも現れるんですよ。だって、それがなきゃ「良い」か「楽しい」かわからないんだもん。

それに対して「嫌なこと」が起きてしまった…この「嫌なこと」を排除するために「良いこと」を意識しなければ。って思っててもしょうがないんじゃないかな。と思うのです。

 

それが実際に「良い」のか「悪い」のかなんて、そのタイミングでは気付けないこともたくさんあるだろうしね。

 

ビックリする程まとまらないので、次に続きます(´-`*)(笑)